悪夢を乗り越える。

 夢の描写は単なる内的なイメージの世界ではなく文法のような言語的構造を持つ一定の必然性のある世界とされている。人は夢を見るとき夢を通じて自分自身の観念と現実の一致した対象世界に関わっている。


 夢はレム睡眠時(半覚醒時)に発生する心理現象であり、誰も気づいていなかったが、実は日常世界で目を覚ましているときにこそ人間は現実と一致した正確な夢を見ているのである。


 人間関係が良好でない人や人間関係を良好にしたい人は、観念の世界と現実の世界を一致させることができないため、相手と自己の関係が現実の象徴的次元で不一致を来しており、悪夢を見ているのと同じ状態であることになる。


 夢は、全く夢を見ない人の認識よりは、現実に近い認識をしている。ニューソートとは、思考と現実は一致し、人間の幸福(欲望)は思考を通じて実現しないものはないとする思想のことであり、ニューソートの思想に依拠すれば、思考する人は夢見る人間と同じように、日々在るべき自分自身に近づいている。

 人間自身の欲望は全て幸福であることに相当するのだから、不幸である人間は根元悪という悪の意志に支配された自分自身に反する悪夢の世界に生きていると言える。


 現実と一致した夢の世界で人間は自分自身でありさえすれば幸福なのであり、もしそうでなければ、無限背反のパラドックスによって、人間の幸福のための内的環境である日常世界には二度と戻れなくなってしまっているのである。


 暗黒世界のモナドは夢を見ることの無くなった人の世界であり外部に接することもないため何も描写することもなく、そのことにより悪夢という悲劇的顛末を引き起こしているのである。対して、対象世界との関わりにおいて、ニューソートは悪の意志を打ち砕き、正夢は悪夢を消し去ることになる。

 人間の認識は、外部に接するたびに夢のような描写をして、毎日のように、内的原理を発達させている。この内的原理は、自分自身の人生そのものを捉えるためのメタファーであり、科学的な因果律や個体生命の限界からは自由な永遠の生命に等しいものである。


 モナドという孤独の世界を克服して真の自分自身の人生の精神世界を得ることができた人だけが、機微な自分自身という存在の欠点を乗り越えて真に自分自身の意志を客観的に実現する仏教で言うところの他力本願のような境地に入ることができるのである(ただし仏教の世界では自分自身の欲望や個体生命への執着は我執と捉えられ否定される。)。


 夢の世界と他力本願の世界の違いは、他力本願の世界では神と異なり不完全である自分自身の意志が実現するのは自分自身の欠点(不足するものは経済額的には需要と捉えられる。)という不足する部分に対してメタ的な社会的次元で経済的な供給が発生し相互互酬的エコノミーが発生し得るためなのであり、自分自身の欠点が社会的承認に至り可能的次元で十全な形質的根拠を具足するまでは自己の欲望は補完されることはなく、自己と他者が社会的に均衡するまでは自分自身の意志は完全に実現することもないことになる。(2024.1.8.筆者記。)

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