文章の自由

 文章にするための考えが明確であるのに、それを言葉にして文書化する第一歩をなかなか踏み出すことができないなら、これから書こうとする文章の構造について不明確であるために他ならない。文章を執筆するためには、起承転結という文章の基本的な構成がしっかりと念頭になければならない。

 しかし、文章の構造は起承転結によってばかり成り立っているのではなく、自分が盛り込みたい内容がなんであるかによって異なってくる。自由に執筆することが文章の表現を科学的文章以上の内容にする秘訣である。テンプレートに収まりきらない複雑な意味を表現することができるなら、自分自身のなかに予め蓄蔵されていた自分自身についての知識が増大することになる。

 文章の表現的意義の基礎には明確な文章の構造が必要なのである。しかし、その構造が何であるかをただ一つだけに決めることのできる人間は居なかった。自分自身の文章の書き方をただ一つに画一化されるよりも、文章全体の構造を念頭に置いて、自由に文章の書き方を決めて執筆する方が、文章の構造を上手に表現する独自の文章表現の追求に繋がっている。

 文章のルール(戒律)は自由に決めることができる。日本の近代詩は当初は西洋詩のようにしっかりした定型を目指したのだが、結局定型を作り定着させることはできず、口語自由詩というものの、明確な定義を持っていなかった。ただし、古代の長歌のような近代詩がなければ、近代以前の詩歌と近代以降の詩文との区別がなくなってしまうため、自由な文章表現を行うには、モダンで日本情緒豊かな七五調定型の新体詩の古典的な作品との比較が必要になる(新体詩は歌曲や歌謡曲へ影響を与えた)。

 口語自由律の現代詩という、行分けで一行の文字数制限のない近代詩というだけの形式主義的な現代詩の定義では、実作品の価値を十分に引き出し楽しむには誤謬でしかない。現代詩は科学性を求める近代詩と違い、形式ではなく表現に価値があるのであり、その価値の発生した所に詩についての哲学的思索の端緒があるのであり、そのための表現は無限に増大するものである。

 人間の天賦の才能は文体という固有の表現的意義にこそ現れる。勿論、人間が神のような表現を作り出すことは不可能事である。しかし、即非の論理では、それでこそ真の詩人には可能なのである。(2023.6.10.筆者記)

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