一言経済コラム(2023.2.16〜2023.5.29)

No.6.2023.5.29 将棋の定跡に角換わり腰掛け銀という戦法があるが、先手番だけで後手番でこの戦法を用いると損をすることになる。だが、後手番でこの戦法を用いれば、宗教的なサクリファイスとして作用し、ゲームに不完全性を導入することになり、自分自身に固有の将棋人生について思いを巡らすことになる。AIは損をしないようにできているのだから、一手損角換わりを十分に使いこなせる訳では無い。AIが人間のように独自の将棋観に達することがない理由である。また、人間がAIより弱いなら、将棋に有利なのはAIより不完全な人間なのであり、人間とAIの戦いは永遠に続くことになるのである。

No.5.2023.5.22 米は債務不履行問題で六月半ばにはデフォルトの危機が発生するとされている。債務不履行問題の背景には、米財務省に税収と債務を対応させて考える近代的な租税国家観が支配的だったことが挙げられるが、行政府を日本のように株式会社と捉えるなら、国債を発行して、返済できなくなったらデフォルトするのが当然になる。保守的でモダンな租税国家観では、健全な財政運営と国民経済の国家的統制が必要になる。税収と連繫しない場合にも国債発行が可能になれば、米社会は、更なる経済の自由化が進み、政府のリスク負担比率は低下することになる。日本の株式会社国家観は、人類をリードした理論だったのであり、米社会は国家観そのものの変更が必要になる。

No.4.2023.5.16 哲学書を読んでも様々な主義の哲学の方法を学ぶことができるだけと言われているが、非基礎付け主義という方法論なしの哲学もある。逆に、凡ゆる思考や知覚が哲学になったのでもあり、そのことにより、哲学者はより独創的な思想家になることが可能になったのでもある。だが、哲学の目的が倫理学や宗教学で無くなったわけではなく、多様な思考も、最後には一つに合流していくので、哲学は不毛な行為ではない。ただ自らの思索の道を只管楽しむことが、最も要領が良い思考の経済である。様々な意匠の主義や思想という方法論が出てきても、倫理的判断を行い幸福を探究するという哲学の構造自体は変化しておらず、あらゆる哲学は自己啓発と同じ意味に受け取るのが正しい。哲学の方法とは文体というそれぞれの思索者の文芸論的基礎に他ならない。思索の表現である文体はそのままその思索者の幸福感の表れでもある。それ故に、現代は、哲学にとって、文芸的な文体こそが、哲学の全てである時代なのであり、様々な哲学の方法により、宗教より間口の広い哲学によって救われる人が出てくる時代なのでもある(そのことを説いたのが拙著『物を書く(哲学的文芸論入門)』である。)。現代において、哲学及び文芸は人間の実質的な宗教の役割を果たしており、宗教よりも経済性の高い理論でさえある。感情をコントロール出来なければ精神疾患と看做されるのは当然だが、もし超越的な他者の観点や倫理観がなければ、人間の幸福を作り出す表現としては、初めから破綻しているので、例外事例である。人間には、自分自身の道を信じて行くことが、幸福への近道であることは変わらない。

No.3,2023.2.24 「人の行く裏に道あり花の山」の相場格言とは裏腹に、バブルのような株式市場の飽和状態に対して、投資家はなおも米金利引き締め緩和の淡い期待を抱いていたというが、国際情勢下には再インフレの兆候も消えておらず、本当に政策の効果があるのかは疑問である。

No.2,2023.2.17 これまでの日銀政策は量的緩和と質的緩和の二つの政策を両輪として成り立っており、銀行中心の量的緩和から証券市場中心の質的緩和にシフトした。銀行は国家の側に立ち個人の富を制限する場合があったが、経済政策は国家を中心とするだけでは危機により不安定であり、危機時にも資本深化が進んだ国際金融との関わりが重要である。

No.1,2023.2.16 「(富国強兵のために)個人の富はすなわち国家の富である。」(論語と算盤、国書刊行会、p180)と渋沢栄一は著者の中で述べている。日銀は巨大な「造幣マシン」と呼ばれているが、造幣マシンを通じて投資家である諸国民の富を一つの国家が強制的に収奪してしまう。銀行と投資家は会社のステークホルダーの中ではライバル関係にあるが、富とは何か、投資家の権利はいかにして守られるか、改めて問題である。

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