変化にはいかに適応するか?

 日々生々流転する盛者必衰の世界だが、いつまでも過去の成功の中に止まっていても、その中で孤立し、世界から淘汰されてしまうだけである。

 だからといって、過去の実績は、消え去ってしまうわけではなく、次に繋がるように活かした方が良い。

 自分自身の物の見方のための観点を失わずに、自分自身の位置を決め、自信を持って世界の変化に対する自分自身のスタンスに自信を持つためには、過去の自分自身の成功哲学の真理が物を言う。

 自分自身、その祖先に遡った過去からの成功は永遠に無くならない。その成功を活かすも殺すも自分次第である。

 そもそも自分自身が無ければ変化へは適応出来ない。自分自身と言う人間は、全く根拠のない人間のようだが、変化し続ける世界の中で、他人のモノマネをしていたとしても、現実に向き合った内には入らない。システムは他者という自分自身に完全に自由になるとは限らないものを根拠とする場合にしか成り立たない不安定な構造をした機構である。

 生成流転する世界において、変化の後には、仏教の無為・無相とされる空の実相やプラトン哲学における哲人王国と言った神のシステムの自己定義のために、供儀によるファントムが、科学では解決できないアポリアとして、社会的に構造化するだけである。

 水の中の魚が、人間の手に入り、丸焼きにされ腹に収まってしまうまでには、魚には、食物連鎖の構造から抜け出して、網に掛かって、群れから逸れ、水中から消え去るという、魚にとっては想像もつかない様な現象が発生している。それを人間の側から見れば、人間が魚を手に入れるとは、常に、人間と人間の外部に存在する人間が支配している魚との不安定な構造において、人間が言語という相近似のメタ的な認識の構造の網により、魚を意識化し、その魚をシステムのエネルギーにして、システムをより純粋化して維持することに他ならない。それ故に、人間は構造の中にただ安住するだけでなく、自己の構造の不安定性という餌場から餌を得続けなければならないのである。この場合、サビキで釣れたアジは、人間の自己自身の構造の限界をしっかり認識して向き合い克服したことにより成立した人間と自然の構造的意義に対しての、自然から人間への感謝の気持ちなのであり、食物連鎖とは構造的な感謝の気持ちの連鎖なのでもあり、それを神の観点から見れば、その人間の行為は、例えば自然観察という意味では、自然環境の保護のようになるのなら、その固有の意義において、人類や社会への貢献にもなり得るものなのである。(2023.5.22。筆者記。)

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