借金塚供養——借金をすることは罪になるか?



 借金をすることは中産階級的な行為とされているが、富裕層も借金をしている。しかし、その借金の内容は中産階級とは異なっており、中産階級の場合は、金利により貸倒れや借金を利用しなくなってしまうということもあり得る。中産階級は一定以上の金額では、自由に借金を借りることができず、行為能力は制限され保護を受けることになる。

 聖書では、借金をした債務者は罪の赦しを受けられるかという聖書中の中心的テーマと関係がある。罪の赦しとは何かを考える場合は、何を基準に罪を許すのかという許す側の観点から見た赦しの尺度となる基準が問題になる。マタイ福音書(18節)では、家来は自分の仲間の借金について憐れむことなく直ぐにその仲間を牢屋に入れてしまっているが、主君はそうではなく、返済することを条件として、罪を許していたのであった。

 罰は罪と等価でなくてはならない。古代バビロニアのハンムラビ法典におけるように、目には目を歯には歯をという倫理感は、全人類共通のものであり、例えばニューソートの思考にも、同様の思考が取り入れられている。ニューソートでは、犠牲になったものが多ければ多い程見返りは多きくなるという因果律が利用されている。

 借金をした人に精神的価値(情報価値=宗教的幸福)はあるかという経済倫理的問題も、ハンムラビ法典の法諺や、ニューソートの因果律により説明することができる。借金という行為の根拠には信用という経済倫理的価値が存在し、借金を行うことには貸倒れというリスクが伴うが、返済することが出来れば罪を全く負わなくて良い。また、貸し手側では、相手のリスクは自分自身のリスクでもあるのであり、借金による貸倒れの犠牲が少なければ少ない程債権者の金利からの利益は少なくなり、ハイリスクハイリターンの法則と一致している。

 債務者が返済を遅滞した場合の罪の赦しは、債務者がどれくらいの額の返済を遅滞しているか、実際に返済することはできるのかにより判断されていた。罪を許せるかどうかは、量刑により罪を量に換算し、罪に応じた金額が返済されれば、質的に罪が帳消しになることにより決定する。聖書でも借金の罪は帳消しになると明記されており、罪は全く消え去り無くなってしまうのである。借金を帳消しにし借金の罪のない状態が、借金を返済できなくなった債務者の借金を帳消しにした場合の精神的価値に相当することになる。

 キリスト教(借金をしてもらう銀行はカトリック教と関係が大きく、メディチ家はローマ教皇にも就任している。)でも借金を行うことには制限はなく、返済できなくなった場合にも、罪の分だけの制裁だけで済み、借金が帳消しになれば罪は許されることにより消滅する。借金を返せなくなった人は、実際には借金を返済していたのであり、よく考えてみれば、ボケのように、借金で悩むことはなかったのである。罪と精神的価値には関係があり、もし罪を帳消しにできなければ、その分だけの精神的価値が要求されることになる。精神的価値とは罪を悔い改めることであり、罪の悔い改めのために、宗教では浄財が行われたり贖宥状が発行されたことがあった。(2023.8.24.筆者記)

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